地域と一体になり、ダイバーシティ&インクルージョンを実現する No Charity, but a Chance! ~保護より機会を~

先日11月18日に開催された、大分国際車いすマラソン。今年で38回目を数える本大会は、世界で初めての「車いすだけのマラソンの国際大会」としてスタートし、世界最大、最高レベルの大会として国内外から多くのランナーが出場している。
多くのトップランナーも参加する中で、現役さながらのレース展開を見せたのが元メダリストの笹原廣喜。彼が北京パラリンピックの日本代表として銀メダルに輝いたのは今から10年前。大分国際車いすマラソンでは日本人初の優勝を飾るなど、国内外の数々の大会で活躍してきた。
そして笹原にはもう一つの顔がある。平日は大分県別府市に構えるオムロンの特例子会社オムロン太陽株式会社の技術者として、障がい者でも健常者でも変わらずに活躍できる「ユニバーサルものづくり」生産ラインを開発している。

※障がい者の雇用の促進及び安定を図るため、事業主が障がい者の雇用に特別の配慮をした子会社

オムロンは企業として協賛、ランナーだけでなくボランティアや応援でも参加しているオムロンは企業として協賛、ランナーだけでなくボランティアや応援でも参加している

個性や特徴を活かし、多様な人財が活躍

「尊敬するアスリートである城隆志に勧められてオムロン太陽を知りました。そして話を聞くうちにオムロンの企業理念に共感し、入社を決めました。」 と、笹原はオムロン太陽との出会いを振り返った。
笹原が開発しているユニバーサルものづくり生産ラインとは、身体・内部疾患・精神など12カテゴリーをターゲットとして、より多くの障がい者が健常者と変わらずに活躍できるようにするものづくり現場のプログラムだ。ハード面とソフト面から検討し、紆余曲折を経て2年を費やしモデルラインを製作。様々な障がいを乗り越える意思疎通ボード、前工程と後工程のスムーズな連携などには、弱みを補いチームで結果を出すための工夫が数多く込められている。アスリートとしてだけでなく技術者としても、一切の妥協を許さない笹原の結晶だ。

※パワーリフティング競技者、パラ・パワーリフティング65kg級の日本記録保持者

「人間には、色々な特性があります。試験の点数は取れないが、この分野でなら誰にも負けない自信がある、といったように誰もが個性や特徴を持っています。大事なのは特性を活かすということ。できないことをやるのではなく、弱みは補い合い強みをいかに出せるかが重要です。」
そう話すのは、オムロン太陽の代表取締役社長である大前浩一。弱みを補い強みを活かすというこの考え方は、車いすマラソンでもオムロン太陽の生産現場でも重視される一貫した理念だ。

オムロン太陽の笹原廣喜(左)と大前浩一(右)オムロン太陽の笹原廣喜(左)と大前浩一(右)

オムロン太陽のダイバーシティは、「違いや弱みをオープンにする」ことから始まる。
視覚、聴覚、精神障がいなどそれぞれの立場が大きく異なるオムロン太陽の生産現場では、自己受容や相互理解が基本の考え方として明確になっており、働く全ての人が重要なコミュニケーションプロセスであるこの基本に真摯に向き合っている。研修を通して自己分析や弱みをオープンにするプロセスを経て、最終的にはチームとしてアウトプットが最大化される相互理解のステージへ到達することを目標にしている。
「オムロン太陽で働く人たちが十分に相互理解できる環境の整備が私の仕事。道半ばではあるが、手応えは感じています。」と、大前は続けた。
オムロン太陽には、生産現場だけでなく研修や能力評価、奨励金制度においても働く全ての人が成長できる機会があり、これらを活かしながら企業理念の一つである「人間性の尊重」を軸にした事業活動を全従業員一丸で取り組んでいる。

多様な人財が共に働くオムロン太陽の生産現場多様な人財が共に働くオムロン太陽の生産現場

現代の日本は身体だけでなく、精神の障がい者の雇用数においても未だ大きな課題を抱えている。約900万人いると言われる障がい者のうち、精神の障がい者は約400万人。これからは精神の障がいを抱える人たちの活躍の場を作り、ロールモデルとなる。この活動を広げていくことが大前の次のチャレンジだ。

「オムロン太陽の社長に任命された時は驚きました。しかしここへ来て、自分たちと変わらない自立して働く社員の姿を見て、自分はここで働き社会貢献したいと決心しました。」と、大前は自身の原点を振り返りながら熱く語ってくれた。

「No Charity, but a Chance!」を実現するユニバーサルな環境

障がい者が働き、地域社会の一住民として暮らすための取り組みはオムロン太陽に限った話ではない。

オムロン太陽がある別府市亀川地区には、ユニバーサルデザインが導入された企業・施設が数多く存在する。
「一人ひとりのお客さんに対して別け隔てなくケアができるよう、障がいを意識させないサービスを徹底しています。」と話すのは、大分銀行太陽の家支店長代理の小野康氏。店内に目を向けると、ATMの点字化から車いすの座高に適した窓口、そして聴覚障がい者とコミュニケーションをとるための筆談ボードなど多くの細かい配慮がされていた。銀行だけでなく、スーパーや駐車場など亀川地区のあらゆる場所でユニバーサルな環境づくりが進められている。

車いすの方も利用できるように2種類の高さが用意された台帳机(大分銀行太陽の家支店)車いすの方も利用できるように2種類の高さが用意された台帳机(大分銀行太陽の家支店)

障がい者に安定した職業を提供して自立を促すことを目的に、整形外科医の中村裕博士が1965年に立ち上げた社会福祉法人「太陽の家」。太陽の家は、「No Charity, but a Chance! ~保護より機会を~」というメッセージを掲げ、寄付金に代表される資金的な援助ではなく「仕事」を求めて、共感を得られる企業を探していた。この中村博士の呼びかけに対しオムロン創業者の立石一真は快諾し、1972年に太陽の家と共同出資でオムロン太陽を設立。現在では多くの企業が太陽の家と共同出資会社を設立しているが、その先駆けとなった。

太陽の家がある亀川地区は、中村博士や立石一真といった先駆者たちが50年前から想い描いた社会が実現している。

社会福祉法人「太陽の家」を創設した中村裕博士と、オムロン創業者の立石一真社会福祉法人「太陽の家」を創設した中村裕博士と、オムロン創業者の立石一真

「体を動かすことが好きですし、応援者、後援会、地域の方、そして講演で訪れた学校の子供たちがマラソンを見に応援に駆けつけてくれることがモチベーションになっています。まだまだ自分も頑張らなければならない、皆さんの期待に応えて走り続けたい。」
先駆者たちが思い描いた地域社会の中で車いすマラソンを走るという誇りと喜び。
笹原の目は既に来年の大会を見据えていた。

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