人が人たるゆえんを探る「脳科学とAI」の融合 ~働くことが喜びになる工場のために、機械が出来ることとは~

「人間と機械が理想的に融和した工場」と聞くと、どのような工場を思い浮かべるだろう。機械に支配された工場ではなく、単に人が機械を使いこなすわけでもない。機械が人に合わせて、人のやりたいことを手助けしてくれる。人の能力や創造性を引き出したりしてくれる。そして、生産性が向上する--。そのような世界を実現するために、オムロンは脳科学とAIを結びつけることを考えた。オムロンが「人と機械の融和」を目指して創業以来培ってきたコア技術をもとに、さらなる新しい分野の研究をリードし、人の「主体感」や「覚醒」、「感情」の次世代センシング研究に取り組んでいる。

 

身体と心をデータでとらえ、より深く人を理解する

工場では、さまざまな人たちが働く。技能や経験といった能力に差があるのはもちろん、身長や体重、手先の器用さといった身体的な個性を持ち、労働意欲にも個人差がある。また、モチベーションや集中力は、同じ人でも日や時間によって変わってくるだろう。そのような人たちの能力値や感情に合わせて、機械がサポートするために、オムロンはまず、「人そのもの」を深く理解しようと考えた。

その深淵なテーマへの取り組みを牽引するのは、中嶋 宏・博士(工学)。学生時代からAIソフトウェア開発について学び、オムロン入社後は、ソフトウェアとデータ処理に強い研究者として、さまざまなプロジェクトをリードしてきた。音声対話システムから内臓脂肪測定などのヘルスケア領域まで、手掛けてきたプロジェクトは幅広いが、「データ・数値を活用して人を理解する」ことを一貫して追求している。

「人と機械の融和をめざす今回の研究では、身体の理解と心の理解の両面から、人の深い理解を実現しようとしています。私たちの研究は、人の人たるゆえんを探るもの、と言えるかもしれません」(中嶋)。

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具体的には、工場で働く人たちの身体と心の状態を知ることで、より深くその人を理解しようとしている。そのためには、多様な情報が必要だ。作業者の眼球運動や手先の動作、作業の導線をつかむことに加え、作業中の脳波や呼吸、心電なども有用なデータになる。身体の動きと脳の働きを可能な限りデータとして集積し、解析する。研究を進めていく中でさまざまな新しい価値が見えてくることへ、期待は高まる。

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「技術は人を幸せにするためのものです」と話すのは、小竹 康代・博士(理学)。小竹は、学生時代に脳神経工学を研究。オムロンが目指す"人と機械の融和"に共鳴して入社し、現在は中嶋とともに今回のテーマを主導している。

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「機械がサポートする部分は、人によって異なるでしょう。工場ではさまざまな人が働いています。たとえば体力が無い人には体力面を、また技能の低い初心者には技能面をサポートする、といった具合です。技能の高い人なら基本的には機械が人に任せた方が良いのですが、体調が悪いときや、集中力が切れかけてくるタイミングもあります。そうした際に、機械が人に合わせてサポートできれば理想です。工場で働く多様な方々に同じ働き方を強制するのではなく、機械が足りないところを補ってくれることによって、自然に一人ひとりに合った動き方ができるようになりますから」(小竹)。

たとえば、工具の最適な置き場所は、作業者の体型や利き腕、利き目などによって異なる。各人各様で心地よく作業するために、機械の助けを借りながら、だれもが個人として技能を高め、想像力を働かせながらより効率的な動きへと進歩できる。中嶋と小竹が目指すのは、そんな工場だ。

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「ストレスのない環境で、良質なデータを得る」という難題

しかし、この挑戦へのハードルは高い。「人の身体や心は常に繊細に変化する。だから人を理解するのはとても難しい」とふたりは話す。

研究にあたってオムロンは、草津工場の一部に研究用の実ラインを敷設し、DIPコネクタの挿入・嵌合プロセスの作業実験を行っている。オムロンの工場で働くベテラン技術者からボランティアを募るほか、オムロンが社会的課題解決をめざして取り組んでいる研究の意義に賛同し、協力してくれる一般人にも初心者として作業をしてもらう。

当初は、データの取得だけでも数多くの課題にぶつかった。人の身体は、画一的でない。たとえば、視線を追う際に、まつげの長さがデータの異常につながるケースがあった。また、痩せ気味になればなるほど、心電計測はやりにくくなる。脳波を取るためのドライ電極は、ペーストを塗ってから貼り付けると抵抗が減り計測しやすいのだが、拭いても取れにくいため被験者に負担をかけてしまう。呼吸を計測したい場合、胸に器具をつけてもらうことになり、作業がしにくくなってしまうこともある。

実験にあたってこだわっているのは、被験者の負担を極小化すること。また、センサーを搭載する器具を装着すると、どうしても非日常体験となってしまうため、「ふだんどおり」の作業をして、脳を働かせている状態になるとは言えない。少しでも良質なデータを取るために、被験者がストレスなく自然に作業できる状態を作らなければならないのだ。データの正確性と被験者のストレスをトレードオフしながら、工夫をしてデータを積み重ねている。

 

「明日からベテラン」で生産性を高める

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研究結果はいつごろ、どのような形で発表されるのか。中嶋は、「少しでも早く何らかの成果を示したい」と話す。「まずは、作業者の熟練度の定量化についての発表を早期に行いたいと考えています」(中嶋)。

作業者の熟練度を定量化できれば、たとえば工場長は作業者の熟練度の変遷を把握できるようになる。指導法と成果をひも付けやすくなり、数カ月後の生産計画に基づいて、新しい作業に対する熟練度を現実的な目標に置いたスキル育成が可能になる。作業者別に作業内容の向き/不向きも指標として把握できるため、作業者の最適配置による生産計画への反映なども期待できる。

ただ、これはあくまでも第1歩だ。長期的な目標は、機械が人をサポートすること。
「人がラインにある機械に指示されて動くのではなく、人がやりたいと思ったことを機械が支援してくれる工場を目指します。働きがいは、人の喜びそのものです。"働くことが楽しくて仕方ない工場"で、人が主体になって働く生産プロセスを実現したいのです」と中嶋は話す。

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オムロンのセル生産ライン

一方で、疑問も浮かぶ。将来、機械が技能の不足する人までサポートできるようになるとすれば、機械がすべてをやってしまい、熟練工が不要になることはないのだろうか。これに対して、中嶋はこう答える。「完全なライン生産方式ならともかく、少量多品種のセル生産方式では難しいと考えています。セル生産方式では、人がそれぞれの体型や経験に基づいて、その人にとって最適な動きをしながら製品を組み立てることが求められます。もちろん手順は決められていますが、動きは人によって異なるわけです。つまり、経験に基づいた素早い判断や工夫が必要で、人の技能や想像力が生かされる仕事と言えます。機械は、そのサポートをしてくれる役割になります」。

小竹は、「AIはどこまで進化しても、人の感情は完全には理解できませんし、人と同様の感情を持つことはないでしょう」と加える。「人は記憶しますが、忘れます。その"いい加減さ"から柔軟性が生まれ、想像力が働くようになります。機械は、マルチタスクをこなすことができ、常に正確に計算してくれます。お互いの長所を持ち寄り、バランスを取るポイントを見定めたいと考えています」。

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人と機械が融和する工場のコンセプトは、「明日からベテラン」だという。だれもが機械のサポートを受け、すぐに熟練工に近いレベルで作業をこなせる。「人財不足を防ぐという意味でも、早期に実現したいテーマです」と小竹。労働人口が減少し、求人倍率は上がっている。少ない人財の生産性を高めなければ、今後の成長は難しい。「モノづくり現場を大きく変革できる技術をつくっていく」と2人の決意は固い。

工場で働く一人ひとりが、想像力を駆使して日々改善しながら作業する。そして、それをロボットやITがサポートしてくれる。"働くのが楽しくて仕方がない工場"はそんな場所なのかもしれない。

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